Interview 対談・インタビュー

世界の食文化を変え、「食べる」の意味を再定義する。 香川から世界を変える次世代カンパニー 【株式会社XEN GROUP 代表取締役 高畑洋輔氏】前編

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今回の対談企画は、「あわいひかり」代表の奥田にとって【盛和塾】の後輩にあたり、香川から世界を変えるための事業に邁進する次世代カンパニー「株式会社XEN GROUP」の高畑洋輔氏に、世界の食文化を変える画期的な技術【Water Stability System】の発明秘話や、事業承継からこれまでの紆余曲折や葛藤、そして社会課題解決への想いを伺いました。

第1章:フィロソフィの大切さ


奥田:わたしたちは2024年1月に「地球に、地域に、人にいいこと」を発信する環境について考えるオウンドメディア「あわいひかり」を立ち上げました。

高畑:なぜオウンドメディアを立ち上げようと思ったのですか?

奥田:「プラスチック=悪」みたいな風潮がありますが、正すべきところはたくさんあれど、これだけ生活に貢献しているということもある。そして環境パッケージと一言で言ってもお客様も認識がバラバラなんです。さらにいろんな人がいて、値段上がるなら要らないとか、こんな機能がついていて1割ぐらい値段が上がるだけなら採用しようかなど、すぐ値段の話になる。どのくらいCO2が下がるのかなどすぐ数字を求める。そもそも関心がない人も。

高畑:本当に正しく伝えるなら「正しい決まり」を作らないといけない。

奥田:ないですからね。日本も世界基準も。

高畑:まだ世界の方が本気じゃないですか?

奥田:環境の話になると、やはりヨーロッパ基準になる。

高畑:そうです。彼らも電気自動車を本気でやろうとしている。やっているレベルが日本とは全然違う。

奥田:わたしたち自身に突きつけられていると思います。CO2削減を2030年に向けて本気でやっているのか、数字をいじくっているだけの話になってしまうのか。

高畑:そういう意味では根本を変えるための技術としてうちの商品は絶対にいいんです。エネルギー効率も全然違うし商品の考え方が全然違う。

奥田:日本は説明責任が果たせればよいという考えもまだ存在しているような風潮がありますが、海外は本質的に解決しようと試みてそこから基準を明確にして行動に移していきます。日本は算出基準が自社都合のところもあり、業界全体としてルールメイキングされていないので、それぞれが都合の良い基準で言っている。印刷業界もそういう側面があり、さまざまな基準が乱立しています。
日本はもっと世界を、業界をリードしてルールメイキングするぐらいのしたたかさや強さがないといけません。先日、某社社長がとある国の大統領を呼び捨てにして怒っていましたが、ああいう気骨のある大企業の経営者が少なくなったなと思います。そのうちの一人が高畑さん(笑)

高畑:ぼくは自分で普通だと思っています(笑)

奥田:みんな自分はそう思っているんですよ(笑)。でも、それぐらいきちんと考えていて、自分に哲学があって判断基準がはっきりしている。世間と合うか合わないかじゃなくて、自分自身の哲学や考え方をきちんと話して、あとはそこに共感するかどうかはその人次第。人として正しいか、従業員ファーストか、そういうことでしょう。



高畑:そうです。そういえば今日の朝礼のフィロソフィーでまさにそれが出てきました。

奥田:何のために働くのか?もっと言うと何のために生きているのかを学ぶ「フィロソフィー」はずっとやっているんですか?

高畑:ずっとやっています。「京セラフィロソフィ」という分厚い本をみんな持っていますが熟読することを強制はしていません。みんな読んでいるという前提ですが、従業員の中には読みたくない人も当然いると思うんです。これは自分のタイミングで必要になった時や「読まなくちゃ」と感じた時に読むものであって、「自分には関係ない」と思っているうちは「読んだフリしときなさい」と言っています(笑)。

奥田:そこまで言いますか(笑)

高畑:言います。できないのにやろうとしてもできませんから。そういう境遇になった時に読み返すものだと思っています。

奥田:朝礼はどんなかたちでやっているのですか?

高畑:週1回やっている全体朝礼の最後に、「京セラフィロソフィ」の読み合わせをしています。毎週従業員が一人ずつ当たっていき、その章についてどう思うかを発表してもらい、みんなで聞きます。

そして、毎日やっている部署ごとの朝礼では、「稲盛和夫 一日一言」の読み合わせをして、それも同じように従業員がコメントを言って、リーダーがそれに対して意見を言うというのもやっています。

〜稲盛和夫さんの本を持ってきて〜


奥田:ああこれね。新しいやつ

高畑:これをみんなに配ってやっています。

奥田:これは僕らのバイブルですね(笑)



高畑:「京セラフィロソフィ」はもう10年くらい続けています。

奥田:この本が出たころから続けているんですか?これ門外不出の本だったんですよね?

高畑:そうです。今やこれが販売されていますからね。

奥田:ところがそれを勉強しない人が・・・。

高畑:読んで終わりではもったいないです。

奥田:そうそう。読むとやっぱり心にビンビンときますよね。足りていないところがまだまだあるなあと。

高畑:そうですね。思い返すみたいな感じ。

第2章:稲盛さんの言葉に救われた



奥田:創業は1963年ですか?

高畑:はい。祖父が設立し私が3代目です。

奥田:めちゃくちゃ高度経済成長の時ですね。

高畑:その時になんでガーンと行かなかったんだろうといつも思うんですよ。祖父と父の時代はいい時代だったはずなのに。

奥田:サッカーを真剣にやっておられた時期もありましたが、どういう経緯で戻ってこられたのですか?

高畑:大学までサッカーをさせてもらい、愛知県へ行ったんですけど、そこまで僕はボンボンやと思っていたんですよ(笑)そんな困ったことも正直なかったし。ですが大学へ行った時に「あれ?うちってお金ないんや」と。大学2年生の時に母に「大学辞めて帰ろうか?」と尋ねると気にしなくていいと言ってくれていましたが、実はその時が一番大変だったと後から知りました。

奥田:そこは親からすればちゃんと卒業しろということだったんですね。

高畑:そうですね。それで卒業するんですが、父に卒業2ヶ月ぐらい前に「ここに行きなさい」と言われ、そこが愛知に本社がある大手の工作機器メーカーの岐阜工場でした。

奥田:とても有名な会社ですね。

高畑:「さすが親父!」と思って意気揚々と入ったら新入社員じゃなく実は実習生だったんです。

奥田:それは驚きですね。それでも雇ってやってくれとお父さんが言ってくださったんでしょうね。

高畑:言ったんだと思いますし勉強させたかったんだと思います。家業の板金屋さんを全部はわからなくても多少なりともかじってこいということかなと。おおよそ1年半ぐらい片手ほどの手取りでずっと働いていました。しばらく会社に走っていってましたよ(笑)岐阜県って結構雪が降るんですよ。安全靴がビチョビチョで(笑)

奥田:最初から1年半ぐらいと決めていたんですか?

高畑:いえ、最初は1年と言われていましたけど、まだ見ていないところがあったのでやらせてもらって、最後はCADをやらせてもらって帰ってきました。



奥田:帰ってきて会社はどんな感じでしたか?

高畑:散々な状態でした。従業員もどんどん辞めていき、自分も何度逃げようか悩んだ程です。

奥田:でもそこで逃げなかったということは何か使命感があったんですか?

高畑:そうですね、自分はサッカーをずっとやってきたので、チーム一丸となってやるのが好きなんです。それぞれが思いを一つにし、それぞれの個性を発揮して勝利を掴み取る。経営もそんな感じでやりたかったんです。自分が大手企業の板金の仕組みを経験してきたことを活かして、もっと会社を良くしたいという使命感に駆られました。自分ひとりだけじゃ会社は回らない。従業員のみなさんが持っている能力を会社に使ってくれているからこそ会社も僕も存在していて、それが原点になっています。
最初は経営と仲間は別物だと勘違いしていました。それが一緒だと教えてくれたのが稲盛和夫さんです。経営は人がいて組織があって成り立つものと理解できてすごく楽になりました。経営でも人を大事にするんだ、自分がサッカーをやってきて、仲間を大切にするのと同じように「そのままでいいんだ」と思えてそこから吹っ切れました。

第3章:板金屋さんから機械製造、そして豆腐事業へ



高畑:当社は元々、分電盤とか配電盤の箱だけを作っている会社で、当時は木製の配電盤が多かったんですよ。「鉄に変わるぞ」という時に祖父がやりはじめて、だんだん鉄の箱になっていきました。

奥田:その時は電気系とかはやってなかったんですか?

高畑:はい。配線とかもないです。本当に箱だけで溶接して塗装して納品という感じでした。

奥田:それからどの時点で機械製造へ進んでいったんですか?

高畑:とある金属加工機械のメンテナンスをしている方がいらっしゃったんですが、その人が自分たちの機械のことをすごい嬉しそうに語るんですよ。うちの機械はこういういいところがあってと熱弁してくれるんです。働く人が喜ぶというか、輝くというか、自分のところを自慢したくなるような仕事にしないといけないと思い、機械メーカーになろうと決めました。ちょうど帰ってきて3年ぐらいのときです。

奥田:周りの従業員は領域を増やしていこうということに賛同してくれたんですね。

高畑:いいえ(笑)。反対されながらも、香川の某企業に「まずは部品からやらせてほしい、塗装までうちはできますから」とお願いしました。部品から少しずつ作らせてもらえる範囲を増やしていこうと思っていました。みんなやったことがないので途中で挫折したり人が辞めてしまったりいろいろありましたが、5年ぐらいかけてようやく機械が作れるようになりました。

奥田:盛和塾で一緒に学んでいた時に豆腐をつくる機械の話が出てきましたね。

高畑:そうですね。それまでは下請けのビジネスをやってきたのですが、リーマンショックがあった時に2割ぐらい仕事が減ったんです。もっと需要の減らない産業ってなんだろうと考えたとき「食品」だと思ったんです。そこから食品事業を始めました。

奥田:しかし社内にノウハウがない中でどうやってできたんですか?急にやろうとしてできるものでもないでしょう?

高畑:たまたま食品業界に詳しい人がいたので、その人の話を聴きながら進めていきました。そのとき、倒産した豆腐屋さんの機械を回収してオーバーホールして納品してくれという依頼があったので、まったくわからない中、数千万かけて手直ししなんとか動くようにしました。それで機械の構造や仕組みを勉強させてもらいました。それを売るはずだったのですが、訳あって買い取ってもらえないことになり、このままじゃ僕らは大損だ!どうしよう、「これを使って豆腐つくろう!」ということになりました。

奥田:普通はそうならんでしょ(笑)

高畑:いや悩みましたよ(笑)でも豆腐は複数の種類があるので実はその商権の専用機になるということがわかりました。修理したのが「大阪型」という特殊な機械だったんですよ。他にもいろんな種類があり、京型なんかは真四角だったりするのですが、専用機になるのでその商権でしか作れない。そういうわけで大阪で豆腐を作り始めました。



奥田:その頃今の事業はありました?

高畑:全然なかったです。そんなことより豆腐をつくらなあかんと(笑)。そもそも、豆腐ってどうやって固まるのって?(笑)豆腐ってどうやってつくるんだろうって、そこからです。あれは大変でしたね。しかし、ここが稲盛氏の教えにもある「もうダメだというときが仕事の始まり」だと。

奥田:お金や技術だけじゃなくやっぱ人とか、そういうところで苦労しますよね。本当に頼りになる人と「えっ?」ってなる人と。

高畑:本当に苦労しました。「俺見る目ないん?」みたいな(笑)

奥田:特にこういう勉強をしていたらわかりますね。ぼくらはこういうのが一番近道やと思っているけど、なんでこんなことやるのって人もいますからね。

高畑:そういう人にもたくさん出会いました。

奥田:その豆腐事業が始まって豆腐をつくり出して、そこで盛和塾世界大会での発表だったんですよね?

高畑:はい。そこで発表でした。今発表しろと言われたら、本当にいろんなドラマがあったので、もっとすごい発表ができそうです(笑)。

後編へ続きます。

  • 取材・文

    中田 晃博(ビジネスデザイナー)