Report レポート
香川県東かがわ市の引田(ひけた)に、安戸池(あどいけ)という内海がある。砂州に囲まれた閉鎖性の海域で、風が吹いても波がほとんど立たず、潮の満ち干きによって海水がゆっくりと入れ替わる。今から約100年前の昭和3年(1928年)、この池でハマチの養殖に世界で初めて成功した人物がいた。野網和三郎、現代の海面養殖の礎をつくったとされる人物だ。
その場所で今、新たな試みが始まっている。牡蠣のシングルシード養殖だ。人が餌を与えずとも育つ牡蠣は、環境負荷の低いタンパク源でありサステナブルフードのひとつ。持続可能な漁業のあり方が問われるなか、魚類養殖発祥の地でその可能性を探る産学官民連携の試みでもある。
今回は、この取り組みを企画した東かがわ市 官民連携マネージャーの寺西さんと、養殖の現場を担うソルトレイクひけた 所長の六車さんにお話を伺った。事業開始から2年半。安戸池で育つ生食用の真牡蠣は「ADOMILK(アドミルク)」と名付けられ、少しずつその名が知られ始めている。
増肉係数ゼロのサステナブルフードとは
国連食糧農業機関(FAO)によると、世界人口は2050年までに約100億人に達すると予測されている。人口が増えるということは、それだけ多くの食料が必要になるということだ。なかでも不足が懸念されているのが、人間が生きていくうえで欠かせない栄養素、タンパク質である。
畜産や養殖でタンパク質を生産するには、大量の飼料が必要になる。その効率を示す指標が「増肉係数(FCR)」だ。肉を1kg成長させるのに必要な飼料の量を表す比率のことで、おおよそマグロは15、牛は10、豚は3、鶏は2といわれている。飼料の生産にも資源を必要とするため、増肉係数が高いほど、より多くの資源を消費することを意味する。
牡蠣は、この増肉係数が0だ。海中の植物プランクトンを食べて育つため、人間が飼料を用意する必要がない。飼料の生産や輸送にともなうCO2排出もなく、家畜のようなメタンガスや糞尿による環境負荷も生じない。それどころか牡蠣の殻の主成分である炭酸カルシウムは、海水中のCO2を取り込みながら大きくなる。飼料を必要とせず、育ちながら海の環境にも関わるという点で、牡蠣はほかの畜産・養殖とは異なる特性を持つ。
また、牡蠣は海水の濾過能力にも優れている。海には植物プランクトンや海藻が育つために必要な成分、栄養塩(リンや窒素など)が存在するが、下水処理の普及などにより陸から海への有機物の流入が減ったことで、この栄養塩が不足しがちな海域が増えている。いわゆる「海が痩せた」といわれる原因だ。一方で栄養塩が豊富な環境ではプランクトンが過剰に増殖し、海中の酸素が失われて魚をはじめ多くの生き物に影響が出ることもある。
牡蠣は海水を濾過しながらプランクトンを大量に食べるので、栄養塩が海中に残りやすくなるとともに、いわゆる赤潮のような状態を抑える効果も期待できる。結果として、ノリなどの栄養塩を必要とする生き物にとっても、魚をはじめ多くの海の生き物にとっても、よい環境が生まれやすくなるという。
「タンパク源が足りなくなっていく世界の中で、100年先にも続いていく養殖って何だろうと考えた時に、牡蠣のポテンシャルに目をつけた」と寺西さんは話す。
IoTと持続可能な漁業の可能性
日本で一般的な牡蠣の養殖は「垂下式」と呼ばれる手法だ。ホタテの貝殻などに稚貝を付着させ、ロープで海中にぶら下げて育てる。生育中は比較的手間がかからず、産卵を終えた秋から冬にかけて出荷シーズンとなる。この方法は今の日本では主流だが、近年、垂下式に使用するプラスチック製パイプの海洋流出が問題視されている。環境省の調査によると、瀬戸内海の漂流ごみの約半数が牡蠣養殖に関連するプラスチック資材だという。
出典:環境省「令和5年度漂着ごみ組成調査データ取りまとめの結果について」 https://www.env.go.jp/page_01888.html
一方、アドミルクで採用したのが「シングルシード方式」だ。ニュージーランドで開発され、フランスやオーストラリアなどで広く普及している手法で、日本ではまだ珍しい。牡蠣の稚貝をカゴに入れ、定期的に天日に干し、カゴを反転させながら育てる。プラスチック製パイプを使用しないためごみが出ず、稚貝を購入するための種苗コストはかかるものの、日々の作業負荷は軽く副業的に取り組むことも可能だ。また人工三倍体種苗を使用するため産卵がなく、一般的な牡蠣が産卵で身が痩せる夏場でも出荷でき、一年を通じた出荷が可能になる。
垂下式が出荷時期に多くの人手を必要とするのに対し、シングルシード方式は年間を通じてこまめに作業を行うため、特定の時期に人手が集中しない。これからの持続可能な漁業を考えるうえで、この労働の平準化は大きな利点といえる。
現場を担う六車さんは、ソルトレイクひけたで施設の管理や食堂(ワーサン亭)の運営を行っており、アドミルクの養殖を始めるまで、漁業の経験は全くなかったそう。
経験も知見もないところからのスタートだからこそ、このプロジェクトではデータを重視している。漁場にはセンサーを設置し、水温や溶存酸素、塩分濃度などを定点計測。牡蠣の成長やへい死の状況と照らし合わせながら、安戸池の環境を少しずつ理解していく。IoTの活用だ。勘や経験がないからこそ、データを積み重ねることで、ベテランの養殖業者に追いつくための道筋を探っている。シングルシード方式は、そうした取り組みとの相性もいい。定期的に牡蠣の入ったカゴを海面から上げ干すので、牡蠣の状態を直接確認できる。データと現場の観察を組み合わせた育て方が可能になる。
安戸池という場所の意味
この事業を安戸池で行う理由のひとつが水質だ。川がなく、人間由来の菌やウイルスが流れ込みにくい環境で、食品衛生法に基づき厚生労働省が定める基準をクリアした「清浄海域」として香川県から指定を受けている。清浄海域の指定を受けられる海域は限られており、この点は事業の根幹にも関わる。
牡蠣自体はもともと菌やウイルスを持っていないが、海水を大量に取り込みながら育つため、育つ海域の水質がそのまま安全性に直結する。人が生活する河口近くの海域は栄養豊富な一方、菌やウイルスが流れ込みやすい環境でもある。生食用として出荷するには、清浄な海域であることが条件となる。
「事業性の話をすると、生食用でやらないと厳しいというのがそろばんをはじいた中であったので、生食ができるかどうかというのが、すごく重要なポイントだった」と寺西さんは話す。生食用として一年を通じて出荷できることが、この事業の収益性を担っている。
また、安戸池は閉鎖性の海域でもある。砂州に囲まれ、風が吹いても波がほとんど立たない。台風が来ても資材が流出したり壊れたりするリスクはほぼなく、毎日安全に漁場に出ることができる。そのため、カゴを反転させる頻度や天日干しの時間を人間がコントロールしやすく、試行錯誤を重ねながら最適な育て方を探るうえで大きな強みとなっている。
この地域にはもうひとつ、特筆すべき素地がある。それは挑戦を続けてきた文化だ。約100年前のハマチ養殖の成功に始まり、ひけた鰤(ブリ)というブランドの確立、そして今回の牡蠣養殖へ。「この地域自体がチャレンジを続けてきたところに、新しいチャレンジと新しい誇りを紡いでいけるような媒体になるものができるというのが大きな目標の一つ」と寺西さんは話す。安戸池という場所が持つ歴史と挑戦の文化が、この取り組みを内側から支えている。
挑戦の現在地
2023年10月に試験養殖をスタートし、2025年2月から販売を開始したアドミルク。この事業は、東かがわ市が発案し、引田漁業協同組合、株式会社ソルトレイクひけた、株式会社リブル、株式会社MizLinx、KDDI株式会社、徳島大学、徳島文理大学によるコンソーシアム(共同事業体)で連携して進めている。現場を動かす中心となっているのは、東かがわ市、ソルトレイクひけた、引田漁協の三者だ。
牡蠣養殖は引田漁協にとっても前例のない取り組みで、現場を担うソルトレイクひけたは漁業の経験が全くないところからの出発だった。さらに当時、ソルトレイクひけたは漁協の准組合員で、規約上、牡蠣養殖事業には参入できなかった。しかし引田漁協の組合長と参事らが規約の改正に動いてくれたことで、この事業の土台が生まれた。
「他の漁師さんから反発があってもおかしくない中、ルール改正をしてくださった。この尽力がなければ、アドミルクは生まれなかった」と寺西さんは振り返る。
寺西さんは行政の立場からこの事業を企画し、資金・資材の調達や行政内外への働きかけを続けた。当初、六車さんは「国から来て2、3年で実績だけつくって帰ってしまうと思っていた」という。だが、動き続け、毎日のように現場に足を運び続ける寺西さんの姿が、周囲の信頼を生んだ。3年目を迎えた今、三者は「絶対成功させてやる」という思いを共有している。六車さんはこう語る。「僕は、お客さんに対して責任があるんです。それに、これだけ頑張ってくれている寺西くんに恥をかかせたらいかんというのもあるんです。その上の市長にも、漁協にも、関わってくれているすべての人にね」。
今、品質は着実に上がっている。「どこに出しても恥ずかしくないようなレベルでできている」と寺西さんは話す。
出荷先はワーサン亭での提供・直売のほか、引田漁協を通じた香川県内の飲食店への卸売が中心で、一部、首都圏にも届いている。需要については「牡蠣が足りない。成長が間に合わないくらい」と六車さん。
また、体験誘客にも力を入れている。漁場体験はアドミルクの試食2個付きで2,000円。安戸池は波が立たず、陸から漁場まで船で5分ほどとアクセスも良い。「船が苦手な人でもすぐ着くので、体験としてすごく向いている」と六車さんは話す。県外からのバスツアーの受け入れも始まっており、体験と食が一体となったコンテンツとして認知が広がりつつある。また、へい死した牡蠣の殻はキーホルダーに加工したり、子ども向けの校外学習で牡蠣殻アートに活用するなど、できる限り資源として活かす取り組みも進めている。
広報などはこれからも市と連携が続くが、この事業を支えてきた行政資金は3月末で一区切りを迎えた。今後はソルトレイクひけたが自走しながら、新たに参入する生産者への技術伝授の役割も担っていく。
寺西さんがこの事業に込めた思いは、アドミルクの生産にとどまらない。東かがわ市は、醤油、和三盆、手袋といった産業を長年育ててきた土地だ。そしてハマチ養殖発祥の地でもある。寺西さんはこの地に赴任した当初から約2か月をかけてそれぞれの町史を読み込み、地域の歴史と産業に向き合った。「何をするにしても、先人の取り組んできたチャレンジや想いが乗っかったものにしないといけないというのは、自分の中で制約を課していた」と寺西さんは話す。
その中でたどり着いたのが、安戸池での牡蠣養殖だった。「究極は誇りの話で、地域の誇りを未来へ紡いでいくというのがまず究極にある。自分たちが自信を持ってうちはこれがあるんだとか、周りからすごいって言われるということが、だんだんその人たちの誇りを作っていくと思っている」と寺西さん。ハマチ養殖からひけた鰤というブランドへ、そして今またアドミルクという新たな挑戦へ。この地域が積み重ねてきたチャレンジの系譜に、新しい一章が加わろうとしている。
ワーサン亭前の野網和三郎、銅像。
取材の最後、寺西さんが「50年後には野網和三郎の銅像の隣に、牡蠣養殖を広めた六車庄一って」と冗談めかして笑いながら言ったその言葉に、この取り組みへの本気が垣間見えた。魚類養殖発祥の地で生まれた新たな挑戦は、まだ始まったばかりだ。
参考:水産庁「平成25年度 水産白書」
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取材
森本 未沙(海育ちのエバンジェリスト)
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取材・文
星川 雅未(アートディレクター)