Series 連載

『間』と書いて『あわい』と読むことをご存知でしょうか。
現代ではあまり使われない大和言葉のようですが、次のような意味があるそうです。

『間』『あわい』とは、物と物のあいだ、距離、関係性。
『間』『あわい』とは、時間と時間のあいだ、時間的隔たり。
『間』『あわい』とは、人と人の間柄、相互の関係。

そこには単なる何かと何かの間という空間ではなく、意味のある空間が存在しているような気がしませんか?
このあわいひかりでは、人と自然と、今と過去と、誰かと誰かの間(あわい)について考えていこうと思います。

大西 貴志(エコロジカルパスファインダー)

「鳥の目、虫の目、魚の目」で未来への道を探します

第 5 章 太古の昔、吉野川は瀬戸内海に流れていた!?

間時間のコーナーも5回目となりました。
プラスチックやリサイクルとはなんの関係もないこの間時間のコーナー、あわいひかり読者のみなさん、ついてこれていますか!?

さて、今回は四国を流れる大河吉野川が、大昔は瀬戸内海へ流れ込んでいたかもしれないということをご紹介したいと思います。


まずはじめに現在の吉野川の流れについて確認をしましょう。
吉野川は四国山地の奥深く、高知県と愛媛県に跨る瓶ヶ森に源流をもち、早明浦ダムを経由しながら東向きに流れていきます。
その後、北向きに流れを変え、大歩危小歩危の深い峡谷を形成し、徳島県三好市付近で再度東に流れを変え、そのまま徳島県を横断し、紀伊水道に注いでいます。。
流域面積は四国の面積の約20%にも及び、日本三大暴れ川の一つとして四国三郎の異名を持っています。

その豊富な水量から、中流にある池田ダムからは香川県に向けて香川用水が取水され、その水は讃岐山脈を地下トンネルで経由して、長年水不足に悩まされていた香川県を潤しています。
支流まで含めた吉野川水系は愛媛県、高知県、徳島県、そして香川県と四国4県を潤す、まさに母なる川なのです。
そんな吉野川が以前は香川県を流れ、瀬戸内海に注いでいたことをご存知でしょうか。

なぜそのようなことが分かったのかというと、讃岐平野の南部、讃岐山脈の北側の地層から、四国山地に分布する結晶片岩の礫(小石)がたくさん発見されたことに由来します。
この結晶片岩は中央構造線の南側に分布していて、本来であれば讃岐山脈の北側に存在しません。ではなぜ香川県内で結晶片岩が見つかったのでしょうか。

それは今から300万年ほど前におきた地殻変動が影響していると言われています。

400万年前ごろ


このころ、まだ讃岐山脈はなく、徳島県側から香川県側にかけてたくさん川が流れていました。
その川の一つが吉野川です。
そうです、この頃には吉野川は紀伊水道ではなく瀬戸内海に向けて流れていたのです。
このときの川の流れが四国山地から運んできたのが結晶片岩の礫なのです。

300万年~100万年前ごろ


その後、太平洋プレートとフィリピン海プレートの東端がぶつかり、フィリピン海プレートは西向きに動きが変わります。
このときに、中央構造線を境としてフィリピン海プレートが横ずれを起こします。
これをきっかけに讃岐山脈が誕生します。また、横ずれしたことにより川もこれまでのように北向きに流れることができなくなり、吉野川は中央構造線に沿って東向きに流れることになったのです。

もしこの出来事がなければ、香川県には今でも吉野川が流れ、水不足になることがなかったかもしれません。
ただ、そうなると、水不足→小麦栽培→うどん文化 という歴史もなくなり、讃岐うどんも誕生しなかったかもしれませんね。

  • 撮影

    大西 貴志(エコロジカルパスファインダー)